鉄道について考える

観客を楽しませる術と作法の問題


 鉄道という乗り物を「映画」に見立てる。
 人や物を輸送する映画、という意味ではない。
 人や物が移動する際の、その時間の、ありとあらゆる夢想を膨らませてくれる「映画」なのである。

 そう考えると、誰が「作り手」で誰が「見る側」かはっきりする。
 作り手には、作るための術があるし作法があり、見る側にも術があって作法があるべきだ。

 福知山線脱線事故。
九州鉄道記念館にて 双方にとって、上映フィルムが途中で切れてしまうということはあってはならないことだ。
 フィルムが切れて見えなくなってしまえば、映画は台無しだからだ。
 だがその事故は、フィルムが切れるばかりでなく、その切れたフィルムの片が観客の首筋を切り裂いて殺すような、夢想を膨らませるどころではない、凄惨な現場となってしまった。

 鉄道を映画に見立て、あの事故をそのようなたとえ話にすること自体、不謹慎であるのは承知である。
 だが判りきったはずの術と作法が、無造作に踏みにじられたということは、たとえばなしをしないとわからない人間が、この世の中に生きているということでもある。
 それは、自分自身かもしれない。

 松本清張の『点と線』の中で、鉄道は殺人トリックに利用され、真の犯罪者を霧の中に隠蔽させた。
 鉄道は、それほど深い霧の中に存在するのだろうか。

〈了〉
(2005.05.26)