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〈1〉学校の追憶
校舎1号館を写した最後の写真(2002年8月) 卒業生である私にとっては不慮の事象であるとしか言い様のなかった、学園の倒産劇からだいぶ月日が流れた。
私は千代田工科芸術専門学校の音響芸術科を1993年に卒業している。
上野の下谷にあったその学校へは、上野駅の入谷口改札から、あの長い通路を通り抜けて、鶯谷方面へ、いくつかのモーターサイクルショップが集合した道に沿って歩いていく。やがて交差点に辿り着けば、交差点の向こうに小さな喫茶店が見える。その先の細い道を1分ほど歩いた所に、学校の通用口があった。主に学生はこの通用口を利用した。
その学校で2年間勉強したノートやテクスト、参考資料のたぐいは私の大事な宝物となっている。それはその中身の充実性とは関係のない部分においても、内面の問題として重要であった。学校がその数年後に消えて無くなることは考えもしなかったが、今となっては、その2年間の学習の痕跡こそが、私にとって学校の《母体》そのものとなっているからだ。
卒業して学校が消えるまでの数年間、上野駅へ近づく電車の窓から、建物の壁に模された巨大な時計が目印となって、その度に学生時代を追憶した。無論、校舎の窓から生徒が顔を出していたし、それが本当の意味での追憶となることなど知るよしもなかった。
あれは、卒業後7、8年が経過した頃。強い郷愁の念に駆られてわざわざ下谷に赴き、学校の食堂へ入ってみることを思いついた。さらにその「3階にある食堂脇の購買部でペラを買おう」とも企てた。ペラとは、200字詰めの原稿用紙(半ペラ)のことだ。
ところが行ってみると、その校舎はなかった。工事によって取り壊され、建物の廃棄物で埋め尽くされていた。別館の建物はまだその時残存していて、私は手持ちのカメラで写真を撮ることができた。いずれにしても生徒らの姿はどこにもなかった――。
〈2〉学生必携の発見
学校法人・千代田学園の一連の倒産劇について、私はあまり関心を抱かなかった。1990年代後期以降の少子化あるいは経営に問題があったかなどによって、1,000人を下回る劇的なほどの生徒数減少。それによって巨額の負債を抱え、不正な経理の問題も発覚した。負債総額8億7900万円。2002年に民事再生手続きを申請、2004年に再生計画完了。 この間において、在籍中の生徒らは疎開とも言える移転地にて授業を行っていたようだが、言うまでもなく、この頃の学園にはマンモス校の面影はなかったようだ。
郷愁というのは、そこに在るべきもの有すべきものが一挙に無くなって尚いっそう焦がれるものであることに気づいた。それと共に月日の経過に伴って、ありありと浮かんでいた記憶でさえも薄らいでいく不安もあった。
さて私は、あの頃、いったいどこでどのようにして授業を聴講していたか、あるいは友人達との時間をどんな場所でどんなふうに過ごしたか。
特に校舎にまつわる記憶が消え失せ、曖昧模糊となってきたことに対し、自ら腹立たしく苛立ちを覚えた。また別の意味の不穏もあった。自らの記憶が失せる中で、学園の印象があの一連の倒産劇のみに集約されていくことに対する不穏。果たして千代田学園の帰趨は、その長い学園史において、本義を鳥瞰し接眼したところによって、あの断末魔の悲劇を生み出す等閑なものであったかを、私は見極めなければならぬ。少なくとも一卒業生である私はそのような意義を今更ながら発意したかった。
あの頃、いったいどこでどのようにして授業を聴講していたか――。
インターネット上の情報を調べたものの、校舎についての記述がほとんどなく、「千代田工科芸術専門学校」としてはどれほどの規模でどういった教室があったかを知る手がかりが意外にも見つからなかった。写真という記録も皆無に近い。
ところがつい先日、机の引き出しの底から、千代田学園の学生手帳“学生必携”が現れた。私は飛び跳ねてそれを手に取った。これを保管し、机の中にしまっていたことさえ忘れていたのだ。在籍当時も携帯するのみであまり開くことのなかった学生必携を、十数年ぶりに開いてみる。
◆校訓
1.最後まで辛抱して努力せよ
2.礼儀を正しくせよ
3.常に清潔にせよ
4.他人に迷惑を掛けるな
5.積極的に行動せよ
6.常に反省して進歩向上せよ
◆教育の3本の柱
良識ある社会人となれ
立派な日本人となれ
職場の中堅指導者となれ

