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旅行く前の余波
学校法人・千代田学園の大まかな沿革はこうである。
1957年、その母体である「千代田テレビ技術学校」が開校発足。1971年には、「千代田ビジネスカレッジ」開校。専修学校として認可されたのは1980年のことで、「千代田工科芸術専門学校」「千代田ビジネス専門学校」(のちに「千代田海洋科学ビジネス専門学校」と校名変更)となる。マンモス校と呼ばれる。
2002年、経営破綻により、民事再生案の手続きを申請。校地校舎を無届けで売却した資産保有義務違反によるもの。2004年、最後の学生達200名以上が卒業。同年12月17日、東京都は私立学校審議会の答申を受け、学校法人・千代田学園の解散を命令。
私はその千代田学園(千代田工科芸術専門学校)の卒業生である。
在籍していた2年間のうち、最初の1年でマスコミとジャーナリズムについての授業を受けた。その授業の講師は、元朝日新聞記者でエッセイストの秋吉茂先生であった(主な著書には、『美女とネズミと神々の島』『遙かなり流砂の大陸』がある)。
私のノートには、その時の授業の内容がびっしりと書き記されており、そのノートは現在も大切に保管してある。ジャーナリズムの狭義と広義、人格権、プライバシーについて、少年法、肖像権、情報公開法、誤報・虚報などが講義テーマに挙げられていた。印象に残っている講義は、新藤兼人監督の映画『裸の十九歳』のモチーフになった、昭和43年の「連続短銃魔事件」である。この時の秋吉先生の講義は、実に冷静で力強く、学生達に訴えかけるものであった。
先生は1917年(大正6)福岡生まれである。白髪で、骨太を思わせるずっしりとした体格。普段は、か細い眼でクシャッと笑顔を見せる。が、真剣な話になると、その顔が一変してきりりとと引き締まった。甲高い声はどこか九州人らしい特徴を持っていて、その声の印象も忘れることができない。
私が在籍していた1992年当時では、75歳であったろうか。
ある講義の冒頭で、秋吉先生は、自身の中央アジアへの旅について話していただいた。その時のことについて、当時の私の日記には以下のような記述があったので引用する。
〈平成3年10月11日:…秋吉先生は、9月にパキスタンに出発した。7000メートル級の峰が立ち並ぶ山脈の一つに登り、山頂付近のホテルに泊まったそうである。
その日の夜、窓を開けて空を眺めると、美しい月の絶景がそこにあった。「中秋の名月」である。低い位置では赤い光を放っていた月が、やがて天高く上り詰めると、光は黄金に輝きだし、月は自ら実態を明らかに照らした。
すると、そこに現れたもの、それは神だった。今まで隠れていた雄大なる神が目を見開いて歩き出したのである。そして神は近づいた。秋吉先生は、その黄金の月と神の存在の美しさに感応され、長い間言葉に詰まった。それまでの記憶にない月の美しさ、山脈の形が月光によって輪郭を明らかにし、想像を絶する影を創り出した。
神の姿は、先生の肉体と精神に完全に宿った。秋吉先生の次なる旅は、ソビエトの未開の地だそうである。『青春とは、熱い血である。見果てぬ夢の探究である』。これは秋吉先生の言葉である〉
さらに日記の付箋には、「コニャックと国境の話」「パキスタン禁酒国産のウイスキー」と記されている。おそらく、そういう旅の話を聴かされたのだろう。残念ながら、まったくその話の内容を記憶していないが――。
山で見た月に関する話は、先生の著書『遙かなり流砂の大陸』(河出書房新社)の「4 イシク・クル湖の月」の稿にある(多少、私の日記の記述と食い違う部分もある)。

