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小倉日記
先述したとおり、千代田学園は、2004年に最後の卒業生を見送り、その伝統ある母校の歴史に幕を閉じた。私はインターネットで、最後の卒業式風景の写真を見た。学生達の静謐な面持ちが、どこか悲しげで寂しさに溢れているように見えるのは、気のせいであろうか。
さて、2005年1月、私はとある音楽評コラムを読んでいて、大変な収穫をした。といっても、自分の無知とほのかな発見とを結びつけたに過ぎないのだが――。コラムは、松本清張の短篇小説『或る「小倉日記」伝』の朗読CDについて書かれてあった。この時点で私は、北九州の小倉への旅行を想起したのだ。
森鴎外の旧居、松本清張の記念館。
半ば衝動的に、小倉に行ってみたいと思い、北九州のガイドブックを買い込んだ。それから数日経って、もう一度そのコラムを読み返していると、松本清張の年譜的な記事に、「朝日新聞に嘱託から社員となり」云々と記され、その後の記述に、「当時の数少ない友人秋吉氏」とあったのだ。私の思考回路は、ごくごく自然発作的に、その“朝日新聞”と“秋吉”を結びつけて考え、それはもしかして、千代田学園で「マスコミ講義」の講師だった、あの秋吉先生なのではないか、という発想に至ったのである。
そうして、当時、千代田学園が発行していた文芸同人誌を引っ張り出し、秋吉先生の記事を丹念に調べた。すると確かに、“松本清張”の側近にいた旨の文章があったのだ。
私の体は、この一瞬、真っ赤な炎のように発光した気がした。インターネットによる情報でも、松本清張の生原稿は、親交ある秋吉氏が所有していた云々の記事があった。実に愚かなことだが、卒業をして10年以上が経ち、ようやく恩師のそのあたりのことを知った私は、まったく個人的な気持ちの整理のため――むしろ自分への憤慨の気持ちを静めるため――に小倉へ向かうことを決心したのである。
2005年5月26日、これ以上の清々しさはないと思えるような青空に恵まれて、私は「松本清張記念館」に向かった。
――松本清張の生い立ちは省くが、その作家活動に至る経緯は、まさに明治・大正・昭和、そして平成へと移り変わる近代日本の歴史とぴったり重なる。
明治維新後、北九州は近代工業の拠点として発展した。細川忠興公による小倉城の築城は、慶長7年(1602)である。その城内に、西海道鎮台本営第12師団司令部が置かれたのは、明治の西南戦争以後のことである。松本清張が誕生する10年前、森鴎外が陸軍軍医としてここに駐留する。
清張の短篇『或る「小倉日記」伝』は、田上耕作という青年を通じて、森鴎外の小倉時代に迫ろうとした。田上耕作も松本清張自身も、森鴎外というある意味においての時代の《巨人》に対し、時に激しく抵抗し、時に強烈に嫉妬し憎悪を抱き、そのとらえようのない漠とした敬愛心をあらわにしたのではないか。そうして、見知らぬ過去の呪縛を解き放たんとして、彼らは愛すべき森鴎外の《裸像》を暴いたのである。私がこの短編を読むとき、松本清張のそのような敬愛心の裏に隠された、抗える心理が発見できたようで、美学とは異なる心理的な可憐さを思わずにはいられないのである。
松本清張記念館の展示には、東京杉並区の彼の邸宅「仕事の城」が再現されてある。その応接室、書斎、書庫の再現はまったく見事であり、彼の作家活動における生々しい現場の内部を、時空を越えて見ることができるのだ。何か、よどんだ空気から伝わってくる異様な気配は、そこに清張が立っているかのような緊張感を引き出してくれる。
完璧に再現された松本清張の東京邸。その書庫は、「蔵書の森」である。
パンフレットには、約3万冊の膨大な蔵書とある。私はその3万冊に及ぶ蔵書を見たことになる。どれほどの時間、蔵書の森を眺めたことだろう。1階と2階に分離された書庫、室内の無数の棚には、夥しい本が律儀に整頓してある。ありとあらゆる分野の本が、そこでうごめき、囁き合い、一人の作家へ語りかけたはずである。まったくもって清張は、この蔵書の森の中で、時に鎮座し、自身の身体の分離を夢見たに違いない。
想像するに、彼が小説を書くということは、やがて朽ち果てる肉体の分離と保存を行う、という主体性が感じられるのだ。いやしかし、その手段については、もっと濃厚な、場合によっては破廉恥な情念による執筆活動であると考えてもよいのではないか。何故ならば、彼の小説に登場する人物は、「社会」「階級制度」「名誉」「地位」への媚びであるとか憎悪、あるいは嫌悪とで渦巻いた、激しい内面に突出しているからである。つまりそれが、作家自らの激しい内面の分離と保存であり、断崖絶壁からはい上がらなければならぬほどの、苛烈な日常の危機を示唆しているのである。
渾身、全身全霊の作家活動。そして古代史、現代史を探究するひたむきな姿勢。それが松本清張という人であり、遺された「蔵書の森」が今も伝える彼の《生》の記録である。
一つの短篇小説『或る「小倉日記」伝』を読んで、小倉へ訪れた。私は松本清張原作の映画ファンである。映画『砂の器』『ゼロの焦点』『影の車』『張り込み』などは、いずれも清張原作の作品である。これらを監督した野村芳太郎さんが、2005年4月8日に死去した。享年85歳であった。野村監督や清張原作映画を語り出すときりがないのでやめるが、映画も文学も娯楽でありながら、人間への深い造詣をもとに、それをサスペンスへと昇華させたのが、松本清張や野村芳太郎という人達である。共に太平洋戦争での経験が、大きな影響を及ぼしていることは言うまでもない。
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松本清張は1992年8月4日に他界した。秋吉先生がその同じ年の9月、異国の高山で月夜の絶景を見た。かつての親友の死――永遠の別れ。私はどうも、そうした思いを湧き上がらせて秋吉先生は、神を存在を感じるに到った《月夜》を体験した――のではないかと思えてならない。私の今回の旅も、恩師・秋吉茂先生と作家・松本清張を結びつける《サスペンス》であったのだろうか。いや、この《サスペンス》のシンコペーションは、完結ではなくまだまだ続きそうである。
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旦過市場は、小倉の町を流れる神嶽川にほど近いところにある。旦過とは、「夕べに来て朝発つ雲水の宿泊(所)」のことだという。すなわち、小笠原秀政(1569~1615)の菩提宗玄寺がここにあったらしい。禅宗である。ちなみに、この小笠原秀政は、私の地元の旧藩の初代藩主でもある。歴史を調べることは、そこはかとなく恐ろしい。
〈了〉
(2005.05.26)

